熊本簡易裁判所 昭和35年(ハ)1135号 判決 1961年3月16日
原告 国
国代理人 小林定人 外二名
被告 能本第一信用金庫
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告指定代理人は「被告は原告に対して六八、六〇〇円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求めその請求の原因として、
訴外瀬上勇助は昭和三四年七月二九日現在において別紙記載のような租税合計五一、一〇一円を滞納した。
一方右訴外人は被告との間に昭和三三年八月一五日満期払渡契約金額七四、〇〇〇円、掛金額毎日二〇〇円、満期日昭和三四年八月一五日、支払期契約満期日とする日掛定期積金契約(通帳番号二、八四七号)を締結し、右昭和三四年七月二九日までに六八、六〇〇円の積立てをなしていたので、右同日熊本税務署収税官吏は右訴外人の右定期積金払戻債権を差押え、この旨被告に通知し、右債権を右訴外人に代位して取立て得ることなつた。
そこで被告に対して六八、六〇〇円の支払いを求めるため本訴に及んだ。と述べ、
被告の主張事実中、本件積金払戻債権につき被告主張のような相殺の予約のなされていたことは否認し、被告主張の相殺の意思表示が右訴外人に対してなされたことは知らないが、その余の事実はすべて認める。
仮に被告がその主張のような相殺の意思表示をなしたとしても、本件の場合相殺適状になつたのも相殺の意思表示のあつたのも差押の後であることは被告の主張自体から明らかであるところ、このような相殺はつぎの理由により無効である。
元来滞納処分たると、強制執行たるとを問わず、債権差押え一は、被差押債権をその当時の状態で凍結し、当事者の任意的処分等を禁ずる効力のあるものであつて被告の主張するように単に民法第四二三条の規定による代位の効力しかないものではなく、又差押え財産の分配は法が債権者間の利害関係を充分考慮してその種類、要件、優先弁済の効力の内容範囲を明定した担保物権を設定した債権者を例外とする他、すべての債権者周に平等に取扱わるべきものであつて、法が差押えに前記のような効力を認めたのも畢竟右分配を公平ならしめることを目的とするからに他ならず、滞納処分においてもこの原則に差異のある筈はなく、更に国税徴収法上の国税債権優先の原則も考慮さるべきである。
而して債権差押え後に第三債務者の反対債権をもつてする相殺を許すことは、実質上一方では被差押債権の弁済をもつて差押債権者に対抗できることになり、他方被差押債権から他の債権者に優先して弁済を受ける結果となり、何れも右原則に反することになる。
ところで民法第五一一条は差押え後に取得した債権をもつてする相殺をもつて差押債権者に対抗できないことを規定するに止まり、その反対解釈を唯一の根拠として差押え前に取得した債権をもつてする相殺であるならばすべて当然に許されるとする被告の主張には到底賛成し難く、右のような強制執行法上の原則に反してまで相殺を保護しなければならないとする結論に達するには更に相殺の性質等につき検討を加える必要がある。
ところで相殺適状にある対立債権は実質上己に消滅に帰したものと考えられ、相殺はこれらにつきいわば確認的になされるものに過ぎず、而かもその効力は相殺適状時まで遡るものであるから、差押当時己に相殺適状にある場合には相殺をもつて差押債権者に対抗できることとされても理論上の不都合はないが、右以外の場合においては債権は実質的にも現存するものであるし、弁済期までしか効力の遡らない相殺をもつて右差押えの基礎を覆すが如きは全く公平の観念にも反し、又この場合まで格別の保護を与うべき他の実質上の理由も見出し難く、第三債務者はよろしく反対債権をもつて差押債権者と並んで被差押債権から弁済を受けることで満足すべきである。以上のとおりであるので相殺適状が差押前にある場合の他は相殺はできないものと解するのが相当である。と述べ、
立証<省略>
被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁及び抗弁として、
訴外瀬上勇助が租税を滞納したかどうかは知らないがその余の事実はすべて認める。
仮に右訴外人が原告主張のような租税を滞納し、原告が本件定期積金払戻債権を有効に差押えたものとしても、被告はつぎの理由によつて本訴請求に応ずることはできない。
即ち被告は昭和三四年六月一六日右訴外人に対して本件積金払戻債権を担保として二四九、〇〇〇円を弁済期を同年八月一四日として貸与していたので、右債権を自働債権として同年八月一五日右訴外人に対して本件積金債務と対当額において相殺する旨の意思表示をなし、且つその旨を同日熊本税務署長に通告した。
仮に右意思表示が不適法であるとするも本訴において相殺の意思表示をなすものである。
したがつて本件債務は右相殺によつて適法に消滅した。
元来国税徴収法に基く債権差押えの効果は被差押債権の譲渡ないし転付を伴うものではなく、単に被差押債権の取立権を取得し、滞納者に代つて債権者の権利を行使し得るに過ぎないものであつて、第三債務者の相殺権の行使まで妨げる効力を発揮するものではない。
民法第五一一条の法意よりするも自働債権が差押え前に発生している限り相殺適状が差押前にある場合は勿論これが差押え後に到来する場合も第三債務者は相殺をもつて差押債権者に対抗できることは明らかである。
況んや被告が右訴外人に二四九、〇〇〇円を貸付けるにあたり本件定期積金払戻債権を担保に供せしめ、その際右債権の差押えを受けた場合その他被告において必要と認めるときは期限の如何に拘らず被告において何でも一方的意思表示によつて相殺し得る旨の相殺の予約のなしていたものであつて、このような場合には右相殺の有効なこと勿論である。と述べた。
立証<省略>
理由
訴外瀬上勇助が被告との間に昭和三三年八月一五日契約金額七四、〇〇〇円、掛金額毎日二〇〇円、満期日昭和三四年八月一五日、支払期日契約満了の日とする日掛定期積金契約を締結し、その積金払戻請求権を担保として昭和三四年六月一六日被告から二四九、〇〇〇円を弁済期を同年八月一四日と定めて借り受けていたこと、熊本税務署収税官吏が同年七月二四日六八、六〇〇円の積金払戻債権を差押え、これを被告に通知したこと、被告が同年八月一五日右訴外人に対する債権と本件積金払戻債権を対当額において相殺する旨を熊本税務署長に通知したことは何れも当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一二号証によれば右訴外人が右差押えの日までに別紙記載のような租税を滞納したこと
が、又証人瀬上勇助の証言によれば被告がその主張の頃右訴外人に対して右相殺の意思表示をしたことが各認められる。
原告は本件のように相殺適状が滞納処分による債権差押えの後に到来するような場合は相殺はできない旨主張するのでこの点につき判断する。
成る程滞納処分による債権差押えの効力は差押債権者たる国が単に民法第四二三条規定のような代位権を取得するに止まるものではなく、強制執行手続上の取立命令に準ずる右のような効力の外に、差押えの本来的効力たる処分制限的効力があつて差押え後第三債務者は被差押債権を任意弁済しても、これを差押債権者たる国に対抗できないこと、強制執行手続においては差押財産の各債権者間における分配は法定の担保物権をもつて担保された債権が優先権を有する外、他は原則として平等に取扱わるべく、法はこの原則を保障するため差押えに前記のような効力を与え、更に配当手続を法定していること、滞納処分手続においてもこの理の異なることはなく、むしろ一定の例外を除き国税債権の優先的効力を規定していること、債権差押え後に相殺適状の到来する債権をもつてする相殺が許されることとすれば、実質上一方において差押え後の第三債務者が被差押債権の弁済を差押債権者に対抗でき、又第三債務者が被差押債権につき他の債権者に優先して弁済を受けるのと同一の結果になることは何れも原告の主張のとおりである。
しかしながら以上のようなことは単に法の建前というに止まり、一切の例外を認めない法文上の明確な規定は見当らないのみか、かえつて民法第五一一条は差押え後取得した債権をもつてする相殺のみが差押債権者に対抗できないことを規定し、然らざる債権をもつてする相殺ならば差押債権者に対抗できる場合のあることを当然に予定しているのであつて、この規定は相殺の特質に鑑み、法が特に前記原則に対する例外を認めているものと解するのが相当である。
しかしながら右規定の反対解釈から一概に自働債権の成立が差押え前である場合はすべて相殺をもつて差押債権者に対抗できるものということはできず、右対抗できるのは如何なる場合であるかは更に検討の上決すべきである。
ところで相殺制度は対立当事者が互に債権債務を有する場合には当該債権の存在自体が相互の間において保障的機能をはたし、これらが共に弁済期を過ぎたものであるときには、当事者は己にこれらが決済されたものとして信頼し合いその取立てや弁済につき殆んど関心を示さないのが通常であるという当事者の利益の保護を目的とするものであつて、この当事者一方の利益が自己の全く関知しない他の当事者の債権の差押えという一事で全く覆えされるとするのは公平の観念に反するから、このような場合は差押え後の相殺をもつて差押債権者に対抗できるものとするのが相当であることについては、
殆んど疑問の余地がない。
而して対立した債権債務が何れも弁済期に至らない場合であつても当事者の一方は少なくとも自己の債権の弁済期が他の一方のそれよりさきに到来するものである以上、相殺適状になり次第何時でも相殺によつて決済し、もつて自己の債務を免れることができる期待と利益を有することは否定できず、前記相殺の本質に照らすとこの利益も保護さるべきこと前者の場合とすこしも異なるところはない。
又一方差押債権者の利益の側からみても、被差押債権の取立てが容易に知り得ない第三債務者が反対債権を有する理由によつて妨害されるという危険を包蔵する点でも彼此格別の差違はない。
而して相殺の遡及効が右結論を左右するものではなく、又国税徴収法上の国税債権優先の原則も、相殺の右特質まで考慮に入れた上で設けられた規定であるとすべき根拠も見出し難い。
以上のとおりであるので被告のその余の主張につき判断するまでもなく、右訴外人の本件定期積金払戻債権は昭和三四年八月一五日被告のなした相殺の意思表示によつて適法に消滅したものと解するのが相当であつて、その存続を前提とする原告の本訴請求は失当として棄却を免れず、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 諸江田鶴雄)
別紙<省略>